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Customer Experience · August 12, 2026

シチズンエクスペリエンスにおけるインクルージョンとアクセシビリティ

吉田 陽菜
1 min read
Inclusion and accessibility in citizen experience
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ある高齢の申請者が、年金の現況届をオンラインで提出しようとして、結局窓口に来た。理由を聞くと「途中で本人確認のコードが読み取れず、電話サポートも呼び出し音だけで誰も出なかった」という。この人がデジタルに弱いのではない。窓口の設計が、彼を最初から想定していなかったのだ。

アクセシビリティを「障害者向けの追加機能」として扱う行政組織は、まだ多い。しかし現場で見てきた結論は逆だ。包摂的な設計は例外対応ではなく、citizen experience(市民体験)の基本設計そのものである。視覚・聴覚・認知・言語・年齢・所得・接続環境——あらゆる違いを持つ市民全員が同じ手続きを完了できるかどうかは、UXの美観の問題ではなく、行政サービスが機能しているかどうかの問題だ。本稿では、なぜ排除が起きるのか、行動経済学がそれをどう説明するのか、そして実務としてどう設計を変えるかを、現場の視点から整理する。

なぜアクセシビリティは「福祉」ではなく設計の基本なのか

結論を先に言う。アクセシビリティを後付けの配慮として扱うと、必ずコストが跳ね上がり、必ず一部の市民が制度から取り残される。逆に最初から設計に組み込めば、障害のある人だけでなく、高齢者、非母語話者、通信環境の悪い地域の住民、そして単に忙しい人まで含めた全員の体験が改善する。

この現象には名前がある。「カーブカット効果」だ。歩道の段差を削って車椅子用のスロープを作った結果、ベビーカーを押す親、キャリーバッグを引く旅行者、荷物を運ぶ配達員まで恩恵を受けた——アメリカの都市計画から生まれたこの逸話は、包摂のための設計変更が想定していなかった集団にも利益をもたらすことを示す典型例として、Stanford Social Innovation Review誌で紹介されている。行政サービスでも同じことが起きる。書式を簡潔な言葉で書き直せば、読字障害のある人だけでなく、忙しい会社員も助かる。音声読み上げに対応させれば、視覚障害者だけでなく、運転中に手続きをしたい人も助かる。

世界保健機関と世界銀行が共同で発表した『World Report on Disability』(2011年)は、世界人口の約15%、10億人以上が何らかの障害と共に生きていると推計している。これは少数派対応の話ではない。人口の6〜7人に1人が直面しうる設計課題であり、行政サービスの標準仕様に含めるべき前提条件だ。

行政サービスの排除はどこで起きているのか

排除は一箇所ではなく、ジャーニーの各接点で静かに蓄積する。窓口、電話、ウェブ、アプリ、郵送——チャネルをまたぐたびに、想定していない市民がふるい落とされていく構造がある。

  • 言語の壁:行政特有の専門用語や法律文体は、母語話者にとっても難解で、非母語話者や学習障害のある人にはほぼ理解不能になる。
  • 認知負荷の壁:多段階の申請フォーム、複数のログインID、異なる部署間で繰り返し求められる本人確認は、認知的に余裕のない状況(失業、病気、介護中など)にある市民ほど重くのしかかる。
  • デジタルデバイドの壁:安定した通信環境や新しい端末を前提としたUI設計は、地方在住者や低所得層を静かに排除する。
  • 身体・感覚の壁:色のコントラスト不足、キーボード操作非対応、音声のみの通知は、視覚・聴覚・運動機能に制約のある市民の利用を妨げる。
  • 時間の壁:平日日中しか開いていない窓口は、時給労働者や単身の介護者にとって、有給休暇を使わなければ辿り着けない障壁になる。

これらは個別のバグではない。サービスデザインの観点から見れば、一つのジャーニーの中で複数の壁が重なり合うことで、離脱が加速する構造的な問題だ。窓口の待ち時間が長く、次にウェブフォームが複雑で、さらに電話サポートも繋がらない——一つひとつは小さな摩擦でも、積み重なれば市民は制度そのものから離脱する。

なぜ「使いやすい」と「使える」はまったく違うのか

ここが多くの行政デジタル化プロジェクトが見落とす一点だ。UIが洗練されていることと、すべての市民がそのUIを実際に完了できることは、まったく別の指標である。

ウェブアクセシビリティの国際基準であるWCAG(Web Content Accessibility Guidelines、W3C策定)は、知覚可能性、操作可能性、理解可能性、頑健性という4原則を掲げている。この基準を満たすかどうかは、デザイナーの美意識では判定できない。スクリーンリーダーで実際に読み上げられるか、キーボードだけで完結できるか、時間制限のあるセッションでも操作を終えられるか——機械的にテストできる項目として設計に組み込む必要がある。

英国では2018年にPublic Sector Bodies (Websites and Mobile Applications) Accessibility Regulationsが施行され、公共機関のウェブサイトとアプリにWCAG 2.1のAA準拠を義務付けている。詳細はgov.ukの公式ガイダンスに示されている。これは単なる法令遵守の話ではない。基準を満たさない行政サイトは、視覚障害のある市民にとって存在しないも同然になる、という現実を制度化したものだ。

実務で私が繰り返し確認してきたのは、アクセシビリティを「あとでチェックする項目」に置くプロジェクトほど、リリース直前に手戻りが発生することだ。コンポーネント単位で最初から音声読み上げやコントラスト比を検証していれば、修正コストは設計段階の数分の一で済む。

行動経済学は何を教えてくれるか

包摂的な市民体験を語るとき、行動経済学の視点は二つの意味で有効だ。一つは、なぜ市民が「合理的に」見える手続きから脱落するのかを説明できること。もう一つは、設計側の善意だけでは排除を防げない理由を説明できることだ。

心理学者ダニエル・カーネマンが整理した二重過程理論は、人間の判断が直感的で省エネルギーな「System 1」と、意識的で努力を要する「System 2」の二つのモードで動くことを示す。認知的に余裕のない状況にある市民——高齢者、ストレス下にある人、非母語話者——は、System 2を発動させる余力が乏しい。複雑な行政フォームは常にSystem 2を要求する設計になっており、これがまさに排除の入口になる。

もう一つ重要なのが、法学者キャス・サンスティーンが提唆した「スラッジ(sludge)」の概念だ。サンスティーンは2021年の著書Sludge: What Stops Us from Getting Things Done(MIT Press)で、過剰な書類、不必要な確認手続き、分かりにくい選択肢を「摩擦の悪用」として定義し、これが特に脆弱な立場にある人々に不均衡な負荷をかけると指摘している。行政の現場でこの概念は特に痛い。給付金の申請手続きが複雑であればあるほど、本当にその給付を必要としている人ほど申請を諦める——これは設計の失敗であり、個人の意欲の問題ではない。

包摂的な設計とは、市民に「頑張って理解してもらう」ことを前提にしないデザインである。頑張らなくても迷わず完了できることが、行政サービスにおける本当のアクセシビリティだ。

選択アーキテクチャとデフォルト設定も同様に効く。たとえば給付金の自動継続をデフォルトにし、辞退したい人だけが明示的にオプトアウトする設計にすれば、複雑な再申請フォームを毎年提出できずに給付を失う高齢者を大幅に減らせる。これは市民を操作しているのではない。制度の意図(支援を必要とする人に届ける)と、デフォルトの設計を一致させているだけだ。行動経済学を行政サービス設計に組み込むことの本質は、まさにここにある。

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包摂的な市民体験をどう設計するか

理念だけでは何も変わらない。実務としてどこから着手すべきかを、段階を踏んで示す。

  1. 現状のジャーニーを可視化する。フロントステージ(市民が見る手続き)とバックステージ(職員の処理プロセス)の両方を洗い出し、どの接点で障害・言語・認知・時間の壁が発生しているかを特定する。抽象的な満足度調査だけでは不十分で、実際の申請完了率や離脱率をチャネル別に見る必要がある。
  2. 脆弱な市民の声を直接拾う仕組みを作る。アンケートの回答率は、まさにアクセシビリティに困っている層で最も低くなる傾向がある。対面インタビュー、支援団体経由のフィードバック、窓口職員からの定性的な聞き取りを組み合わせて補完する。
  3. WCAG準拠を設計要件として組み込む。リリース後の修正項目ではなく、要件定義書の必須項目にする。コントラスト比、キーボード操作、読み上げ対応を、機能要件と同じレベルで検収基準に含める。
  4. 書式・文言をプレインランゲージに書き直す。法律用語をそのまま転記した通知文は、母語話者でも理解に苦しむ。読解レベルを下げても法的な正確性は損なわれない、という前提で全ての市民向け文書を見直す。
  5. デフォルトを支援側に設計する。再申請の自動継続、給付の自動判定、複数窓口での本人確認情報の共有など、市民に「毎回頑張らせる」構造をデフォルトから外す。
  6. チャネルの選択を市民に残す。デジタル化を進めても、窓口・電話・対面という代替チャネルを削らない。デジタルを唯一の入口にした瞬間、通信環境や認知能力に制約のある市民が制度から排除される。
  7. 職員をアクセシビリティの最終防衛線として訓練する。システムが完璧でなくても、窓口職員が排除のサインに気づき、代替手段を案内できれば、離脱を防げる。

この一連の作業は、単発のプロジェクトではなく継続的な運用体制として機能させる必要がある。ジャーニーの再設計はCXジャーニーの枠組みで定期的に見直し、脆弱な市民の声はVoice of Customer戦略として制度化することで、一度の改善が数年後にまた元の摩擦に戻ることを防げる。

デジタルとアナログのチャネルはどう両立させるべきか

デジタル化そのものを疑う必要はない。窓口の待ち時間を減らし、24時間対応を可能にするデジタルチャネルは、多くの市民にとって明確な改善だ。問題は、デジタルを「唯一の正解」として扱い、他のチャネルを縮小させる判断だ。

実務で見てきた失敗パターンは共通している。コールセンターの人員を削減し、窓口の営業時間を短縮し、その分をオンラインポータルに集約する。利用者の大多数にとっては効率化だが、通信環境が不安定な地域の住民、視力や認知機能が低下した高齢者、行政手続きの言語に不慣れな移民にとっては、唯一の頼れる経路が消える。結果として、最も支援を必要としている層ほど制度から遠ざかる。

解決策は「チャネル・フレキシビリティ」を設計原則として明文化することだ。デジタルを推奨しつつ、アナログを廃止しない。むしろデジタルチャネルの利用率が上がった分、窓口や電話のリソースを、より複雑な事情を抱えた市民への支援に再配分する。これは効率化と包摂を対立させない考え方であり、公共サービスのCXデジタルトランスフォーメーションを進める組織が最初に合意すべき前提条件でもある。

測定できないものは改善できない

アクセシビリティを継続的に改善するには、感覚ではなく指標が必要だ。多くの行政組織は「利用者満足度」を測るが、そこには構造的な偏りがある。制度から既に脱落した市民、そもそも調査に回答できない市民は、満足度調査のサンプルに現れない。つまり、最も深刻な排除は測定から漏れる。

これを補うには、次の三つの指標を組み合わせる必要がある。第一に、チャネル別・属性別の完了率(申請を始めた市民のうち、実際に完了できた割合)。第二に、代替チャネルへの逃避率(オンラインで開始したが窓口や電話に切り替えた市民の割合、これは摩擦の直接的なシグナルになる)。第三に、支援団体や介護者からの定性的なフィードバック。これらを組み合わせて初めて、実際に誰が取り残されているかが見える。

組織全体のアクセシビリティ成熟度を体系的に把握したい場合は、CX成熟度アセスメントのような診断枠組みを使い、包摂性を含む複数の観点から現状を数値化するのも一つの方法だ。バックステージのプロセスまで含めて可視化するには、サービスブループリンティングの手法が、どの職員のどの判断が市民の離脱に影響しているかを明らかにするのに役立つ。

結び:誰も取り残さない制度は、誰も特別扱いしない

包摂的な市民体験の最終目標は、障害のある市民や高齢者に「特別なルート」を用意することではない。標準の設計そのものを、最初から誰も置いていかない形にすることだ。特別対応が必要になるのは、標準設計が誰かを想定していなかった証拠に過ぎない。

行政サービスを設計する立場にいる人間にとって、この問いは避けられない。もし今日、視力を失い、日本語が母語でなく、通信環境が不安定な状態で、自分の作った申請フォームに向き合わなければならないとしたら、それは完了できるだろうか。答えが「いいえ」であるなら、設計はまだ終わっていない。

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吉田 陽菜
Renascence

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